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れらは皆、人の偽言に因って如来の金言を知らざるなり。大覚世尊、涅槃経に滅後を警めて言わく「善男子よ。我が所説において、もし疑いを生ぜば、なお応に受くべからず」云々。しかれば、仏、なお我が所説なりといえども、不審有らばこれを叙用せざれとなり。今、予を諸師に比べて謗難を加う。しかりといえども、あえて私曲を構えず。専ら釈尊の遺誡に順って諸人の謬釈を糾すなり。
夫れ、斉の始めより梁の末に至るまで二百余年の間、南北の碩徳、光宅・智誕等の二百余人、涅槃経の「我らことごとく邪見の人と名づく」の文を引いて、法華経をもって「邪見の経」と定め、一国の僧尼ならびに王臣等を迷惑せしむ。陳・隋の比、智者大師これを糾明せし時、始めて南北の僻見を破し了わんぬ。唐の始め、太宗の御宇に、基法師、勝鬘経の「もし如来、彼の欲するところに随って方便もて説かば、即ちこれ大乗にして、二乗有ることなし」の文を引いて、一乗方便・三乗真実の義を立つ。この邪義、震旦に流布するのみにあらず、日本の得一、称徳天皇の御時、盛んに非義を談ず。ここに伝教大師、ことごとく彼の邪見を破し了わんぬ。
後鳥羽院の御代に、源空法然、観無量寿経の「大乗を読誦す」の一句をもって法華経を摂め入れ、還って称名念仏に対して「雑行・方便なり。捨閉閣抛せよ」等云々。しかりといえども、五十余年の間、南都・北京・五畿七道の諸寺諸山の衆僧等、この悪義を破ること能わざりき。予が難破分明たるのあいだ、一国の諸人たちまち彼の選択集を捨て了わんぬ。「根露るれば枝枯れ、源乾けば流れ竭く」とは、けだし、この謂いなるか。
しかのみならず、唐の半ば、玄宗皇帝の御代に、善無畏・不空等、大日経の住心品の「如実一道心」
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(162)曽谷入道殿許御書 | 文永12年(’75)3月10日* | 曽谷教信・大田乗明 |