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本の東寺の門人等、堅くこれを信じて種々に僻見を起こし、非より非を増し、暗きより暗きに入る。不便の次第なり。
彼の門家の伝法院の本願たる正覚の舎利講の式に云わく「尊高なるものは不二摩訶衍の仏なり。驢牛の三身は車を扶くること能わず。秘奥なるものは両部曼陀羅の教えなり。顕乗の四人も履を取ること能わず」云々。三論・天台・法相・華厳等の元祖等を真言の師に相対するに「牛飼いにも及ばず、力者にも足らず」と書ける筆なり。乞い願わくは、彼の門徒等、心在らんの人はこれを案ぜよ。大悪口にあらずや、大謗法にあらずや。詮ずるところ、これらの狂言は、弘法大師の「後に望めば戯論と作る」の悪口より起こるか。教主釈尊・多宝・十方の諸仏は、法華経をもって已今当の諸説に相対して、「皆これ真実なり」と定め、しかる後、世尊は霊山に隠居し、多宝・諸仏は各本土に還りたまいぬ。三仏を除くの外、誰かこれを破失せん。
なかんずく、弘法の覧るところの真言経の中に、三説を悔い還すの文これ有りや不や。弘法既にこれを出ださず。末学の智、いかんせん。しかるに、弘法大師一人のみ、法華経を華厳・大日の二経に相対して戯論・盗人となす。詮ずるところ、釈尊・多宝・十方の諸仏をもって盗人と称するか。末学等、眼を閉じてこれを案ぜよ。
問うて曰わく、昔より已来、いまだかつてかくのごとき謗言を聞かず。何ぞ上古清代の貴僧に違背し、いずくんぞ当今濁世の愚侶を帰仰せんや。
答えて曰わく、汝が言うところのごとくんば、愚人は定めて理運なりと思わんか。しかれども、こ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(162)曽谷入道殿許御書 | 文永12年(’75)3月10日* | 曽谷教信・大田乗明 |