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正法一千年の前の五百年には、一切の声聞、涅槃し了わんぬ。後の五百年には、他方より来れる菩薩、大体本土に還り向かい了わんぬ。像法に入っての一千年には、文殊・観音・薬王・弥勒等、南岳・天台と誕生し、傅大士・行基・伝教等と示現して、衆生を利益す。
今、末法に入って、これらの諸大士も皆、本の処に隠居しぬ。その外、閻浮守護の天神地祇も、あるいは他方に去り、あるいはこの土に住すれども悪国を守護せず、あるいは法味を嘗めざれば守護の力無し。例せば、法身の大士にあらざれば三悪道に入らざるがごとし。大苦忍び難きが故なり。しかるに、地涌千界の大菩薩、一には娑婆世界に住すること多塵劫なり。二には釈尊に随って久遠より已来初発心の弟子なり。三には娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり。かくのごとき等の宿縁の方便、諸大菩薩に超過せり。
問うて曰わく、その証拠、いかん。
法華第五の涌出品に云わく「その時、他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたるは乃至その時、仏は諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく『止みね。善男子よ。汝等がこの経を護持せんことを須いじ』と」等云々。天台云わく「他方はこの土に結縁のこと浅し。宣授せんと欲すといえども、必ず巨益無からん」云々。妙楽云わく「なおひとえに他方の菩薩に付せず。あに独り身子のみならんや」云々。また天台云わく「『八万大士に告げたまわく』とは乃至今の下の文のごときは、下方を召してなお本眷属を待つ。験らけし、余はいまだ堪えざること」云々。経釈の心は、迦葉・舎利弗等の一切の声聞、文殊・薬王・観音・弥勒等の迹化・他方の諸大士は、末世の弘経に堪えずというなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(162)曽谷入道殿許御書 | 文永12年(’75)3月10日* | 曽谷教信・大田乗明 |