1399ページ
敬心を至すこと、諸天の帝釈に従うがごとし。提婆が仏を打ちしも舌を出だして掌を合わせ、瞿伽利が無実を構えしも地に臥して失を悔ゆ。文殊等の大聖は身を慙じて言を出ださず。舎利弗等の小聖は智を失って頭を低る。
その時に、大覚世尊、寿量品を演説し、しかして後に十神力を示現して、四大菩薩に付嘱したもう。その所嘱の法は何物ぞや。法華経の中にも、広を捨てて略を取り、略を捨てて要を取る。いわゆる、妙法蓮華経の五字、名・体・宗・用・教の五重玄なり。例せば、九方堙が馬を相するの法には玄黄を略して駿逸を取り、支道林が経を講ずるの法には細科を捨てて元意を取る等のごとし。
この四大菩薩は、釈尊成道の始め寂滅道場の砌にも来らず、如来入滅の終わり抜提河の辺にも至らず。しかのみならず、霊山八年の間に、進んでは迹門序正の儀式に文殊・弥勒等の発起・影響の諸聖衆にも列ならず、退いては本門流通の座席に観音・妙音等の発誓弘経の大士にも交わらず。ただこの一大秘法を持って本の処に隠居するの後、仏の滅後正像二千年の間においていまだ一度も出現せず。詮ずるところ、仏専ら末世の時に限ってこれらの大士に付嘱せし故なり。
法華経の分別功徳品に云わく「悪世末法の時、能くこの経を持たば」云々。涅槃経に云わく「譬えば、七子あり、父母平等ならざるにあらざれども、しかも病者において心則ちひとえに重きがごとし」云々。法華経の薬王品に云わく「この経は則ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり」云々。七子の中に上の六子はしばらくこれを置く。第七の病子は、一闡提の人、五逆・謗法の者、末代悪世の日本国の一切衆生なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(162)曽谷入道殿許御書 | 文永12年(’75)3月10日* | 曽谷教信・大田乗明 |