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ただし、四十余年の間、過去にすでに結縁の者もなお謗の義有るべきの故に、しばらく権小の諸経を演説して根機を練らしむ。
問うて曰わく、華厳の時の別円の大菩薩、乃至観経等の諸の凡夫の得道は、いかん。
答えて曰わく、彼らの衆は、時をもってこれを論ずれば、その経の得道に似たれども、実をもってこれを勘うるに、三・五の下種の輩なり。
問うて曰わく、その証拠、いかん。
答えて曰わく、法華経第五の巻の涌出品に云わく「この諸の衆生は、世々より已来、常に我が化を受く乃至この諸の衆生は、始め我が身を見、我が説くところを聞き、即ち皆信受して、如来の慧に入りき」等云々。天台、釈して云わく「衆生は久遠に」等云々。妙楽大師云わく「脱は現に在りといえども、つぶさに本種を騰ぐ」。また云わく「故に知んぬ、今日の逗会は昔の成就の機に赴くことを」等云々。経と釈と顕然の上は私の料簡を待たず。例せば、王女と下女と、天子の種子を下ろさずんば、国主とならざるがごとし。
問うて曰わく、大日経等の得道の者は、いかん。
答えて曰わく、種々の異義有りといえども、繁きが故にこれを載せず。ただし、詮ずるところ、彼々の経々に種・熟・脱を説かざれば、還って灰断に同じ。化に始め無きの経なり。しかるに、真言師等、即身成仏を談ずるは、譬えば、窮人のみだりに帝王と号して自ら誅滅を取るがごとし。王莽・趙高の輩、外に求むべからず、今の真言家なり。これらは因みに論ぜしなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(162)曽谷入道殿許御書 | 文永12年(’75)3月10日* | 曽谷教信・大田乗明 |