1338ページ
(141)
四菩薩造立抄
弘安2年(ʼ79)5月17日 58歳 富木常忍
白小袖一つ、薄墨の染め衣一つ、同じき色の袈裟一帖、鵝目一貫文、給び候。今に始めざる御志、言をもって宣べがたし。いずれの日を期してか対面を遂げ、心中の朦朧を申し披かんや。
一、御状に云わく「『本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には久成の地涌の四菩薩を造立し奉るべし』と兼ねて聴聞仕り候いき。しかれば、聴聞のごとくんば、いずれの時か」云々。
夫れ、仏世を去らせ給いて二千余年に成りぬ。その間、月氏・漢土・日本国・一閻浮提の内に仏法の流布すること、僧は稲麻のごとく、法は竹葦のごとし。しかるに、いまだ本門の教主釈尊ならびに本化の菩薩を造り奉りたる寺は一処も無し。三朝の間にいまだ聞かず。日本国に数万の寺々を建立せし人々も、本門の教主・脇士を造るべきことを知らず。上宮太子、仏法最初の寺と号して四天王寺を造立せしかども、阿弥陀仏を本尊として、脇士には観音等・四天王を造り副えたり。伝教大師、延暦寺を立て給うに、中堂には東方の鵝王の相貌を造って本尊として、久成の教主・脇士をば建立し給わず。南京七大寺の中にも、このことをいまだ聞かず。田舎の寺々もってしかなり。
かたがた不審なりしあいだ、法華経の文を拝見し奉りしかば、その旨顕然なり。末法・闘諍堅固
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(141)四菩薩造立抄 | 弘安2年(’79)5月17日 | 58歳 | 富木常忍 |