SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

わず。この故に応に戯論すべからず。もし仏を求め得る時、乃ち能く了知す。余人は信ずべきも、しかもいまだ知るべからず」等云々。この釈は、爾前の別教の十一品の断無明、円教の四十一品の断無明の大菩薩、普賢・文殊等もいまだ法華経の意を知らず、いかにいわんや蔵・通二教の三乗をや、いかにいわんや末代の凡夫をやという論文なり。
 これをもって案ずるに、法華経の「ただ仏と仏とのみ、いまし能く究尽したまえり」とは、爾前の灰身滅智の二乗の煩悩・業・苦の三道を押さえて法身・般若・解脱と説くに、二乗還って作仏す、菩薩・凡夫もまたかくのごとしと釈するなり。故に、天台云わく「二乗の根敗、これを名づけて毒となす。今経に記を得るは、即ちこれ毒を変じて薬となす。論に云わく『余経は秘密にあらず、法華はこれ秘密なり』と」等云々。妙楽云わく「『論に云わく』とは大論なり」云々。
 問う。かくのごとくこれを聞いて、何の益有るや。
 答えて云わく、始めて法華経を聞くなり。妙楽云わく「もし三道即ちこれ三徳と信ぜば、なお能く二死の河を渡る。いわんや三界をや」云々。末代の凡夫、この法門を聞けば、ただ我一人のみ成仏するにあらず、父母もまた即身成仏せん。これ第一の孝養なり。
 病身たるの故に委細ならず。またまた申すべし。
  建治四年太歳戊寅二月二十八日    日蓮 花押
 富木殿