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世間の愚者の思いに云わく「日蓮智者ならば、何ぞ王難に値うや」なんど申す。日蓮兼ねての存知なり。父母を打つ子あり、阿闍世王なり。仏・阿羅漢を殺し、血を出だす者あり、提婆達多これなり。六臣これをほめ、瞿伽利等これを悦ぶ。日蓮、当世にはこの御一門の父母なり、仏・阿羅漢のごとし。しかるを、流罪し、主従共に悦びぬる。あわれに無慙なる者なり。謗法の法師等が、自ら禍いの既に顕るるを歎きしが、かくなるを一旦は悦ぶなるべし。後には彼らが歎き、日蓮が一門に劣るべからず。例せば、泰衡がしょうとを討ち、九郎判官を討って悦びしがごとし。既に一門を亡ぼす大鬼のこの国に入るなるべし。法華経に云わく「悪鬼はその身に入る」、これなり。
日蓮もまた、かくせめらるるも、先業なきにあらず。不軽品に云わく「その罪は畢え已わって」等云々。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈・打擲せられしも、先業の所感なるべし。いかにいわんや、日蓮、今生には貧窮・下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出でたり。心こそすこし法華経を信じたるようなれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二渧とせり。その中に識神をやどす。濁水に月のうつれるがごとし。糞囊に金をつつめるなるべし。心は法華経を信ずる故に梵天・帝釈をもなお恐ろしと思わず。身は畜生の身なり。色心不相応の故に、愚者のあなずる道理なり。心もまた身に対すればこそ月・金にもたとうれ。
また過去の謗法を案ずるに、誰かしる、勝意比丘が魂にもや、大天が神にもや、不軽軽毀の流類なるか、失心の余残なるか、五千上慢の眷属なるか、大通第三の余流にもやあるらん。宿業はかりがたし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(122)佐渡御書 | 文永9年(’72)3月20日 | 51歳 | 門下一同 |