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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 弘法大師は、またこれらにはにるべくもなき僻人なり。いわゆる、「法華経は大日経に劣るのみならず、華厳経等にもおとれり」等云々。しかるを、この邪義を人に信ぜさせんために、あるいは大日如来より写瓶せりといい、あるいは我まのあたり霊山にしてきけりといい、あるいは師の恵果和尚の我をほめし、あるいは三鈷をなげたりなんど申し、種々の誑言をかまえたり。愚かな者は今信をとる。
 また、天台の真言師は慈覚大師を本とせり。叡山の三千人もこれを信ずる上、随って代々の賢王の御世に勅宣を下す。その勅宣のせんは、「法華経と大日経とは同じく醍醐。譬えば、鳥の両翼、人の左右の眼なり」等云々。今の世の一切の真言師は、この義をすぎず。これらは、蛍火を日月に越ゆとおもい、蚯蚓を華山より高しという義なり。その上、一切の真言師は、灌頂となづけて釈迦仏を直ちにかきてしきまんだらとなづけて弟子の足にふませ、あるいは「法華経の仏は無明に迷える仏、人の中のえぞのごとし。真言師が履とりにも及ばず」なんど、ふみにつくれり。今の真言師は、この文を本疏となづけて日々夜々に談義して、公家・武家のいのりとごうしておおくの所領を知行し、檀那をたぼらかす。
 事の心を案ずるに、彼の大慢ばら門がごとく、無垢論師にことならず。これらは現身に阿鼻の大火を招くべき人々なれども、強敵のなければさてすぐるか。しかりといえども、そのしるし眼前にみえたり。慈覚と智証との門家等、闘諍ひまなく、弘法と正覚が末孫が本寺と伝法院、叡山と園城との相論は、修羅と修羅と、猿と犬とのごとし。これらは慈覚の夢想に日をいるとみ、弘法の現身の妄語のすえか。