1242ページ
またいかなる不思議にやあるらん。他事にはことにして、日蓮が申すことは御用いなし。後に思い合わせさせ奉らんがために申す。隠岐法皇は天子なり。権大夫殿は民ぞかし。子の親をあだまんをば、天照太神うけ給いなんや。所従が主君を敵とせんをば、正八幡は御用いあるべしや。いかなりければ公家はまけ給いけるぞ。これはひとえに只事にはあらず。弘法大師の邪義、慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思って、叡山・東寺・園城寺の人々の鎌倉をあだみ給いしかば、『還って本人に著きなん』とて、その失還って公家はまけ給いぬ。武家はそのこと知らずして調伏も行わざればかちぬ。今また、かくのごとくなるべし。えぞは死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり。いかにとして頸をばえぞにとられぬるぞ。これをもって思うに、この御房たちだに御祈りあらば、入道殿、事にあい給いぬと覚え候。あなかしこ、あなかしこ。『さ、いわざりける』とおおせ候な」と、したたかに申し付け候いぬ。
さて、かえりききしかば、同四月十日より阿弥陀堂法印に仰せ付けられて、雨の御いのりあり。この法印は東寺第一の智人、おむろ等の御師、弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり。それに随って十日よりの祈雨に、十一日に大雨下りて風ふかず、雨しずかにて一日一夜ふりしかば、守殿御感のあまりに、金三十両、むま、ようようの御ひきで物ありときこう。
鎌倉中の上下万人、手をたたき、口をすくめてわらうようは「日蓮、ひが法門申して、すでに頸をきられんとせしが、とこうしてゆりたらば、さてはなくして、念仏・禅をそしるのみならず、真言の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(107)種々御振舞御書 | 建治2年(’76) | 55歳 | (光日尼) |