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ば、大蒙古国より打っ手を向けて日本国ほろぼさるべし。ただ平左衛門尉が好むわざわいなり。和殿原とても、この島とても、安穏なるまじきなり」と申せしかば、あさましげにて立ち帰りぬ。
さて、在家の者ども申しけるは「この御房は神通の人にてましますか。あらおそろし、おそろし。今は念仏者をもやしない持斎をも供養すまじ」。念仏者、良観が弟子の持斎等が云わく「この御房は謀叛の内に入りたりけるか」。さて、しばらくありて世間しずまる。
また念仏者集まりて僉議す。「こうてあらんには、我らかつえしぬべし。いかにもして、この法師を失わばや。既に国の者も大体つきぬ。いかんがせん」。念仏者の長者の唯阿弥陀仏、持斎の長者の性諭房、良観が弟子の道観等、鎌倉に走り登って武蔵守殿に申す。「この御房、島に候ものならば、堂塔一宇も候べからず。僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば、あるいは火に入れ、あるいは河にながす。夜もひるも高き山に登って、日月に向かって大音声を放って上を呪詛し奉る。その音声、一国に聞こう」と申す。
武蔵前司殿、これをきき、「上へ申すまでもあるまじ。まず国中のもの、日蓮房につくならば、あるいは国をおい、あるいはろうに入れよ」と私の下知を下す。また下文下る。かくのごとく三度。その間のこと、申さざるに心をもって計りぬべし。あるいはその前をとおれりと云ってろうに入れ、あるいはその御房に物をまいらせけりと云って国をおい、あるいは妻子をとる。かくのごとくして、上へこの由を申されければ、案に相違して、去ぬる文永十一年二月十四日の御赦免の状、同三月八日に島につきぬ。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(107)種々御振舞御書 | 建治2年(’76) | 55歳 | (光日尼) |