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しうちして、後には他国よりせめらるべし。例せば、立正安国論に委しきがごとし。かように書き付けて、中務三郎左衛門尉が使いにとらせぬ。つきたる弟子等も、あらぎかなと思えども、力及ばざりげにてあるほどに、二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのよう申すばかりなし。
六郎左衛門尉、その夜にはやふねをもって一門相具してわたる。日蓮にたなごころを合わせて、「たすけさせ給え。去ぬる正月十六日の御言、『いかにや』とこのほど疑い申しつるに、いくほどなく三十日が内にあい候いぬ。また蒙古国も一定渡り候いなん。念仏無間地獄も一定にてぞ候わんずらん。永く念仏申し候まじ」と申せしかば、「いかに云うとも、相模守殿等の用い給わざらんには、日本国の人用いるまじ。用いずば、国必ず亡ぶべし。日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈迦仏の御使いぞかし。わずかの天照太神・正八幡なんどと申すは、この国には重けれども、梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし。されども、この神人なんどをあやまちぬれば、ただの人を殺せるには七人半なんど申すぞかし。太政入道・隠岐法皇等のほろび給いしはこれなり。これは、それにはにるべくもなし。教主釈尊の御使いなれば、天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ、手を合わせて、地に伏し給うべきことなり。法華経の行者をば、梵釈、左右に侍り、日月、前後を照らし給う。かかる日蓮を用いぬるとも、あしくうやまわば国亡ぶべし。いかにいわんや、数百人ににくませ、二度まで流しぬ。この国の亡びんこと疑いなかるべけれども、しばらく禁をなして『国をたすけ給え』と日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、ほうに過ぐれば罰あたりぬるなり。また、この度も用いず
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(107)種々御振舞御書 | 建治2年(’76) | 55歳 | (光日尼) |