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りてありしかば、もののふども、皆えんよりとびおり、あるいは大庭にひれふし、あるいは家のうしろへにげぬ。やがて即ち天かきくもりて、大風吹き来って、江の島のなるとて、空のひびくこと大いなるつづみを打つがごとし。
夜明くれば、十四日卯時に、十郎入道と申すもの、来って云わく「昨日の夜の戌時ばかりに、こうどのに大いなるさわぎあり。陰陽師を召して御うらない候えば、申せしは『大いに国みだれ候べし。この御房、御勘気のゆえなり。いそぎいそぎ召しかえさずんば、世の中いかが候べかるらん』と申せば、『ゆりさせ給び候え』と申す人もあり。また『百日の内に軍あるべしと申しつれば、それを待つべし』とも申す」。
依智にして二十余日、その間、鎌倉に、あるいは火をつくること七・八度、あるいは人をころすことひまなし。讒言の者どもの云わく「日蓮が弟子どもの火をつくるなり」と。「さもあるらん」とて、「日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからず」とて、二百六十余人しるさる。「皆遠島へ遣わすべし。ろうにある弟子どもをば頸をはねらるべし」と聞こう。さるほどに、火をつくる等は持斎・念仏者が計り事なり。その余はしげければかかず。
同十月十日に依智を立って、同十月二十八日に佐渡国へ著きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のように死人を捨つる所に、一間四面なる堂の、仏もなし。上はいたまあわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆることなし。かかる所にしきがわ打ちしき、蓑うちきて、夜をあかし、日をくらす。夜は雪・雹・雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給わ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(107)種々御振舞御書 | 建治2年(’76) | 55歳 | (光日尼) |