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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

臥し、兵どもおじ怖れ、きょうさめて、一町ばかりはせのき、あるいは馬よりおりてかしこまり、あるいは馬の上にてうずくまれるもあり。日蓮申すよう「いかにとのばら、かかる大禍ある召人にはとおのくぞ。近く打ちよれや、打ちよれや」と、たかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。「さて、よあけば、いかにいかに。頸切るべくばいそぎ切るべし。夜明けなばみぐるしかりなん」とすすめしかども、とかくのへんじもなし。
 はるかばかりありて云わく「さがみのえちと申すところへ入らせ給え」と申す。「これは道知る者なし。さきうちすべし」と申せども、うつ人もなかりしかば、さてやすらうほどに、ある兵士の云わく「それこそ、その道にて候え」と申せしかば、道にまかせてゆく。午時ばかりにえちと申すところへゆきつきたりしかば、本間六郎左衛門がいえに入りぬ。
 さけとりよせて、もののふどもにのませてありしかば、各かえるとて、こうべをうなだれ、手をあざえて申すよう「このほどは、いかなる人にてやおわすらん、我らがたのみて候阿弥陀仏をそしらせ給うとうけたまわればにくみまいらせて候いつるに、まのあたりおがみまいらせ候いつることどもを見て候えば、とうとさに、としごろ申しつる念仏はすて候いぬ」とて、ひうちぶくろよりずずとりいだしてすつる者あり。「今は念仏申さじ」と、せいじょうをたつる者もあり。六郎左衛門が郎従等、番をばうけとりぬ。さえもんのじょうもかえりぬ。
 その日の戌時ばかりに、かまくらより上の御使いとて、たてぶみをもって来ぬ。頸切れというかさねたる御使いかと、もののふどもはおもいてありしほどに、六郎左衛門が代官・右馬のじょうと申す