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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

をしれり。これまた、「仏の御力なり」と云々。仏法は眼前なれども、機なければ顕れず、時いたらざればひろまらざること、法爾の道理なり。例せば、大海の潮の時に随って増減し、上天の月の上下にみちかくるがごとし。
 今この御本尊は、教主釈尊、五百塵点劫より心中におさめさせ給いて、世に出現せさせ給いても四十余年、その後また法華経の中にも、迹門はせすぎて宝塔品より事おこりて寿量品に説き顕し神力品・嘱累に事極まって候いしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給いしかども叶わず。これらは智慧いみじく才学ある人々とはひびけども、「いまだ日あさし。学も始めなり。末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしおきたる真の弟子あり。これにゆずるべし」とて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆずらせ給いて、「あなかしこ、あなかしこ。我滅度して後、正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師、一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくおどらん。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難ならびおこり、一閻浮提の人々、各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらん時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、この五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至、後生の大火炎を脱るべし」と、仏記しおかせ給いぬ。