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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

ば、さにてはなくして、わらびのみ並び立ちたり。谷に下って、あまのりやおいたると尋ぬれば、あやまりてやみるらん、せりのみしげりふしたり。
 古郷のこと、はるかに思いわすれて候いつるに、今このあまのりを見候いて、よしなき心おもいいでて、うくつらし。かたうみ・いちかわ・こみなとの磯のほとりにて昔見しあまのりなり。色・形・あじわいもかわらず。など、我が父母かわらせ給いけんと、かたちがえなるうらめしさ、なみだおさえがたし。
 これはさてとどめ候いぬ。ただ大尼御前の御本尊の御事おおせつかわされて、おもいわずらいて候。その故は、この御本尊は、天竺より漢土へ渡り候いしあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候いし人々の中にもしるしおかせ給わず。西域等の書ども開き見候えば、五天竺の諸国の寺々の本尊、皆しるし尽くして渡す。また漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候寺々の御本尊、皆かんがえ尽くし、日本国最初の寺、元興寺・四天王寺等の無量の寺々の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候えば、その寺々の御本尊、またかくれなし。その中にこの本尊はあえてましまさず。
 人疑って云わく「経論になきか。なければこそ、そこばくの賢者等は、画像にかき奉り木像にもつくりたてまつらざるらめ」と云々。しかれども、経文は眼前なり。御不審の人々は、経文の有無をこそ尋ぬべけれ。前代につくりかかぬを難ぜんとおもうは僻案なり。例せば、釈迦仏は悲母孝養のために忉利天に隠れさせ給いたりしをば、一閻浮提の一切の諸人しることなし。ただ目連尊者一人これ