1222ページ
しかるに、日蓮、上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らいかと存じて、この二十余年が間、これを申す。この法門弘通せんには、「如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」「一切世間に怨多くして信じ難し」と申して、第一のかたきは国主ならびに郡郷等の地頭・領家・万民等なり。これまた第二・第三の僧侶がうったえについて、行者を、あるいは悪口し、あるいは罵詈し、あるいは刀杖等云々。
しかるを、安房国東条郷は、辺国なれども日本国の中心のごとし。その故は、天照太神、跡を垂れ給えり。昔は伊勢国に跡を垂れさせ給いてこそありしかども、国王は八幡・賀茂等を御帰依深くありて天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請文をもっておうかの小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびおさめしかば、太神の御心に叶わせ給いけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給いぬ。この人、東条郡を天照太神の御栖と定めさせ給う。されば、この太神は、伊勢国にはおわしまさず、安房国東条郡にすませ給うか。例せば八幡大菩薩は、昔は西府におわせしかども、中比は山城国男山に移り給い、今は相州鎌倉鶴岡に栖み給う。これもかくのごとし。
日蓮は一閻浮提の内、日本国安房国東条郡に始めてこの正法を弘通し始めたり。したがって、地頭、敵となる。彼の者すでに半分ほろびて今半分あり。領家はいつわりおろかにて、ある時は信じ、ある時はやぶる。不定なりしが、日蓮御勘気を蒙りし時、すでに法華経をすて給いき。日蓮先よりげんざんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり。日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんためにこの
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(105)新尼御前御返事 | 文永12年(’75)2月16日 | 54歳 | 新尼 |