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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

か。故に、法華経に云わく「如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」云々。始めにこの文を見候いし時は、さしもやと思い候いしに、今こそ「仏の御言は違わざりけるものかな」と、殊に身に当たって思い知られて候え。
 日蓮は身に戒行なく、心に三毒を離れざれども、「この御経を、もしや我も信を取り、人にも縁を結ばしむるか」と思って、随分世間のことおだやかならんと思いき。世末になりて候えば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧もさてこそ候か。日蓮は、させる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず、ただ法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち、螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり。恐らくは、在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり。「これひとえに、法華経を信ずることの余人よりも少し経文のごとく信をもむけたる故に、悪鬼その身に入ってそねみをなすか」とおぼえ候えば、これ程の卑賤・無智・無戒の者の、二千余年已前に説かれて候法華経の文にのせられて、「留難に値うべし」と仏記しおかれまいらせて候ことのうれしさ、申し尽くし難く候。
 この身に学文つかまつりしこと、ようやく二十四・五年にまかりなるなり。法華経を殊に信じまいらせ候いしことは、わずかにこの六・七年よりこのかたなり。また、信じて候いしかども、懈怠の身たる上、あるいは学文といい、あるいは世間のことにさえられて、一日にわずかに一巻・一品・題目ばかりなり。去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日のほどは、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。その故は、法華経の故にかかる身となりて候えば、行住坐臥に法華