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賤の者、あるいは殺生の者と云い、あるいは行き合い奉る時は面を覆って眼に見奉らじとし、あるいは戸を閉じ窓を塞ぎ、あるいは国王・大臣の諸人に向かっては、「邪見の者なり。高き人を罵る者」なんど申せしなり。大集経・涅槃経等に見えたり。
させる失も仏にはおわしまさざりしかども、ただこの国のくせ・かたわとして、悪業の衆生が生まれ集まって候上、第六天の魔王がこの国の衆生を他の浄土へ出ださじとたばかりを成して、かく、事にふれてひがめることをなすなり。このたばかりも、詮ずるところは、仏に法華経を説かせまいらせじ料と見えて候。
その故は、魔王の習いとして、三悪道の業を作る者をば悦び、三善道の業を作る者をばなげく。また、三善道の業を作る者をばいとうなげかず、三乗とならんとする者をばいとうなげく。また、三乗となる者をばいとうなげかず、仏となる業をなす者をばあながちになげき、事にふれて障りをなす。法華経は一文一句なれども耳にふるる者は既に仏になるべきと思いて、いとう第六天の魔王もなげき思う故に、方便をまわして留難をなし、経を信ずる心をすてしめんとたばかる。
しかるに、仏の在世の時は濁世なりといえども、五濁の始めたりし上、仏の御力をも恐れ、人の貪瞋癡・邪見も強盛ならざりし時だにも、竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は悪象を放って三界の独尊をおどし奉り、提婆達多は証果の阿羅漢・蓮華比丘尼を害し、瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立てき。いかにいわんや、世漸く五濁の盛りになりて候をや。いわんや、世末代に入って、法華経をかりそめにも信ぜん者の人にそねみねたまれんことは、おびただしかるべき
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(104)四恩抄 | 弘長2年(’62)1月16日 | 41歳 | 工藤殿 |