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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 その時に、日蓮、意に念わく「別して中違いまいらすることなけれども、東条左衛門入道蓮智が事によって、この十余年の間は見奉らず。ただし中不和なるがごとし。穏便の義を存し、おだやかに申すことこそ礼儀なれ」とは思いしかども、「生死界の習い、老少不定なり。また二度見参のこと難かるべし。この人の兄・道義房義尚、この人に向かって無間地獄に堕つべき人と申して有りしが、臨終思うようにもましまさざりけるやらん。この人もまたしかるべし」と哀れに思いし故に、思い切って強々に申したりき。
 「阿弥陀仏を五体作り給えるは、五度無間地獄に堕ち給うべし。その故は、正直捨方便の法華経に『釈迦如来は我らが親父、阿弥陀仏は伯父』と説かせ給う。我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給いて、親父をば一体も造り給わざりけるは、あに不孝の人にあらずや。中々、山人・海人なんどが、東西をしらず一善をも修せざる者は、還って罪浅き者なるべし。当世の道心者が後世を願うとも、法華経・釈迦仏をば打ち捨てて、阿弥陀仏・念仏なんどを念々に捨て申さざるは、いかがあるべかるらん。打ち見るところは善人とは見えたれども、親を捨てて他人につく失、免るべしとは見えず。一向悪人は、いまだ仏法に帰せず、釈迦仏を捨て奉る失も見えず、縁有って信ずる辺もや有らんずらん。善導・法然ならびに当世の学者等が邪義に就いて、阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す人々は、多生曠劫をふるとも、この邪見を翻して釈迦仏・法華経に帰すべしとは見えず。されば、双林最後の涅槃経に十悪五逆よりも過ぎておそろしきものを出ださせ給うに、『謗法・闡提と申して、二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纏える智者どもの中にこそ有るべし』と見え侍れ」と、こまごまと申して