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しかるを、日蓮は安房国東条郷清澄山の住人なり。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云わく「日本第一の智者となし給え」と云々。虚空蔵菩薩、眼前に高僧とならせ給いて、明星のごとくなる智慧の宝珠を授けさせ給いき。そのしるしにや、日本国の八宗ならびに禅宗・念仏宗等の大綱、ほぼ伺い侍りぬ。殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで、この十六・七年の間、禅宗と念仏宗とを難ずる故に、禅宗・念仏宗の学者、蜂のごとく起こり、雲のごとく集まる。これをつむること、一言二言には過ぎず。結句は天台・真言等の学者、自宗の廃立を習い失って、我が心と他宗に同じ、在家の信をなせることなれば、彼の邪見の宗を扶けんがために「天台・真言は念仏宗・禅宗に等し」と料簡しなして、日蓮を破するなり。これは、日蓮を破するようなれども、我と天台・真言等を失う者なるべし。能く能く恥ずべきことなり。この諸経・諸論・諸宗の失を弁うることは、虚空蔵菩薩の御利生、本師・道善御房の御恩なるべし。
亀魚すら恩を報ずることあり。いかにいわんや人倫をや。この恩を報ぜんがために、清澄山において仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す。しかるに、この人、愚癡におわする上、念仏者なり。三悪道を免るべしとも見えず。しかもまた、日蓮が教訓を用うべき人にあらず。しかれども、文永元年十一月十四日、西条華房の僧坊にして見参に入りし時、彼の人云わく「我智慧なければ請用の望みもなし。年老いていらえなければ、念仏の名僧をも立てず。世間に弘まることなれば、ただ南無阿弥陀仏と申すばかりなり。また、我が心より起こらざれども、事の縁有って阿弥陀仏を五体まで作り奉る。これまた過去の宿習なるべし。この科によって地獄に堕つべきや」等云々。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(097)善無畏三蔵抄 | 文永7年(’70) | 49歳 | 義浄房・浄顕房 |