法華経に劣るのみにあらず、涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を、法華経に勝れたりとする謗法の失なり。二には、大日如来は釈尊の分身なり。しかるを大日如来は教主釈尊に勝れたりと思いし僻見なり。この謗法の罪は、無量劫の間千二百余尊の法を行ずとも、悪道を免るべからず。この三蔵、この失免れ難き故に、諸尊の印・真言を作せども叶わざりしかば、法華経第二の譬喩品の「今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり。しかるに今この処は、諸の患難多し。ただ我一人のみ、能く救護をなす」の文を唱えて、鉄の縄を免れさせ給いき。
しかるに、善無畏已後の真言師等は、「大日経は一切経に勝るるのみにあらず、法華経に超過せり」、あるいは「法華経は華厳経にも劣る」なんど申す人もあり。これらは、人は異なれども、その謗法の罪は同じきか。また、善無畏三蔵は、法華経と大日経と大事とすべしと深理をば同ぜさせ給いしかども、印と真言とは法華経は大日経に劣りけるとおぼせし僻見ばかりなり。その已後の真言師等は、大事の理をも法華経は劣れりと思えり。印・真言はまた申すに及ばず。謗法の罪遥かにかさみたり。閻魔の責めにて堕獄の苦を延ぶべしとも見えず。直ちに阿鼻の炎をや招くらん。
大日経には、本、一念三千の深理なし。この理は法華経に限るべし。善無畏三蔵、天台大師の法華経の深理を読み出ださせ給いしを、盗み取って大日経に入れ、法華経の荘厳として説かれて候大日経の印・真言を、彼の経の得分と思えり。理も同じと申すは僻見なり。真言・印契を得分と思うも邪見なり。譬えば、人の下人の六根は主の物なるべし。しかるを、我が財と思う故に、多くの失出で来る。この譬えをもって諸経を解るべし。劣る経に説く法門は、勝れたる経の得分と成るべきなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(097)善無畏三蔵抄 | 文永7年(’70) | 49歳 | 義浄房・浄顕房 |