1186ページ
詮ずるところは、智者は八万法蔵をも習うべし、十二部経をも学すべし。末代濁悪世の愚人は、念仏等の難行・易行等をば抛って、一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし。日輪、東方の空に出でさせ給えば、南浮の空、皆明らかなり。大光を備え給える故なり。蛍火はいまだ国土を照らさず、宝珠は懐中に持ちぬれば万物皆ふらさずということなし。瓦石は財をふらさず。念仏等は、法華経の題目に対すれば、瓦石と宝珠と、蛍火と日光とのごとし。我らが昧き眼をもって、蛍火の光を得て物の色を弁うべしや。かたがた凡夫の叶いがたき法は、念仏・真言等の小乗・権経なり。
また、我が師・釈迦如来は、一代聖教、乃至八万法蔵の説者なり。この娑婆、無仏の世の最先に出でさせ給いて、一切衆生の眼目を開き給う御仏なり。東西十方の諸の仏菩薩も、皆この仏の教えなるべし。譬えば、皇帝已前は、人、父をしらずして畜生のごとし。尭王已前は、四季を弁えず、牛馬の癡かなるに同じかりき。仏世に出でさせ給わざりしには、比丘・比丘尼の二衆もなく、ただ男女二人にて候いき。今、比丘・比丘尼の真言師等大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し、念仏者等が阿弥陀仏を一向に持って釈迦如来を抛ちたるも、教主釈尊の比丘・比丘尼なり。元祖が誤りを伝え来るなるべし。
この釈迦如来は、三つの故ましまして、他仏にかわらせ給いて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給う。
一には、この娑婆世界の一切衆生の世尊にておわします。阿弥陀仏はこの国の大王にはあらず。釈迦仏は、譬えば我が国の主上のごとし。まずこの国の大王を敬って、後に他国の王をば敬うべし。天
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(097)善無畏三蔵抄 | 文永7年(’70) | 49歳 | 義浄房・浄顕房 |