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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

一、法華経の行者に水火の行者ある事
  仰せに云わく、総じてこの経を信じ奉る人に、水火の不同有り。その故は、火のごとき行者は多く、水のごとき行者は希なり。火のごとしとは、この経のいわれをききて火炎のもえ立つがごとく貴く殊勝に思って信ずれども、やがて消失す。これは、当座は大信心と見えたれども、その信心の灯消ゆることやすし。
  さて、水のごとき行者と申すは、水は昼夜不退に流るるなり。少しもやむことなし。そのごとく法華経を信ずるを水の行者とは云うなり云々。
一、女人と妙と釈尊と一体の事
  仰せに云わく、女人は子を出生す。この出生の子、また子を出生す。かくのごとく展転して無数の子を出生せり。この出生の子に、善子もあり悪子もあり、端厳美麗の子もあり醜陋の子もあり、長のひくき子もあり大いなる子もあり、男子もあり女子もあり云々。
  詮ずるところ、妙の一字より万法は出生せり。地獄もあり餓鬼もあり乃至仏界もあり、権教もあり実教もあり、善もあり悪もあり、諸法を出生せり云々。
  また、釈迦一仏の御身より一切の仏菩薩等ことごとく出生せり。阿弥陀・薬師・大日等は、ことごとく釈尊の一月より万水に浮かぶところの万影なり。しかれば、女人と妙と釈尊との三つ全く不同無きなり。妙楽大師云わく「妙は即ち三千、三千は即ち法なり」云々。提婆品に云わく「有一宝珠、価直三千大千世界(一つの宝珠の、価直三千大千世界なるもの有り)」とは、これなり云々。