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一、「置不呵責(置いて呵責せず)」の文の事
仰せに云わく、この経文においては日蓮等の類いのおそるべき文字一字これ有り。もしこの文字を恐れずんば、たとい当座は事なしとも、未来無間の業たるべし。しかれば、無間地獄へ引き入る獄卒なるべし。それは「置」の一字これなり。この「置」の一字は、獄卒なるべし。謗法不信の失を、見ながら、聞きながら、云わずして置かんは、必ず無間地獄へ堕在すべし。よって、「置」の一字、獄卒・阿防羅刹なるべし。もっとももって恐るべきは、「置」の一字なり云々。
詮ずるところ、この経文の内に獄卒の一字を恐るべきなり云々。この獄卒の一字、深くこれを思うべし。日蓮は、この字を恐るるが故に、建長五年より今弘安年中まで、在々所々にて申しはりしなり。ただひとえに、この獄卒を脱れんがためなり。法華経には「若人不信(もし人信ぜずして)」とも、「生疑不信者(疑いを生じて信ぜずんば)」とも説きたまえり。法華経の文々句々をひらき、涅槃経の文々句々をひらきたりとも、置いていわずんば叶うべからざるなり。この「置」の一字より外に獄卒は無きなり云々。
一、異念無く霊山浄土へ参るべき事
仰せに云わく、異念とは、不信のことなり。もし我が心なりとも不信の意出来せば、たちまちに信心に住すべし。詮ずるところ、不信の心をば師となすべからず。信心の心を師匠とすべし。浄心信敬に法華経を修行し奉るべきなり。されば、「能持是経(能くこの経を持つ)」「能説此経(能くこの経を説く)」と説いて、「能」の字を説かせたまえり。霊山ここにあり。「四土は一念にして、皆常寂光
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |