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いわんや、その以下の等覚の菩薩をや、まして謗法の人々においてをや。いわゆる南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経・諸宗を対治すべし。「巧於難問答 其心無所畏(難問答に巧みにして、その心に畏るるところ無し)」とは、これなり云々。
一、妙法蓮華経の五字を眼と云う事
仰せに云わく、法華第四に云わく「仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼(仏滅度して後に、能くその義を解せば、これ諸の天・人の世間の眼なり)」云々。この経文の意は、法華経は人・天・二乗・菩薩・仏の眼目なり。この眼目を弘むるは日蓮一人なり。この眼には五眼あり。いわゆる肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり。この眼をくじりて別の眼を入れたる人あり。いわゆる弘法大師これなり。法華経の一念三千・即身成仏の諸仏の開眼を止めて真言経にありと云えり。これあに法華経の眼を抽れる人にあらずや。またこの眼をとじふさぐ人あり。いわゆる法然上人これなり。「捨閉」の「閉」の文字は、眼を閉ずる義にあらずや。
詮ずるところ、能弘の人に約しては、日蓮等の類い、「世間之眼」なり。所弘の法に随えば、この大乗経典はこれ諸仏の眼なり。詮ずるところ、「眼」の一字は一念三千の法門なり。六万九千三百八十四字をこの「眼」の一字に納めたり。この「眼」の字顕れて見れば、煩悩即菩提・生死即涅槃なり。
今、末法に入って、「眼」とは、いわゆる未曽有の大曼荼羅なり。この御本尊より外には眼目無きなり云々。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |