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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

一、「諸河に鹹無し」の事
  仰せに云わく、この「鹹無し」のことをば、諸教の無得道に譬えたり。大海のしおはやきをば、法華経の成仏得道に譬えたり。また、諸経に一念三千の法門無きは、諸河にうしおの味無きがごとく、死人のごとし。法華経に一念三千の法門有るは、うしおの大海に有るがごとく、生きたる人のごとし。法華経を浅く信ずるは、あわのうしおのごとし。深く信ずるは、海水のごとし。あわは消えやすし、海水は消えざるなり。如説修行、最ももって大切なり。しかりといえども、諸経の大河の極深なるも大海のあわのしおの味をば具足せず。権経の仏は法華経の理即の凡夫には百千万倍劣るなり云々。
一、妙楽大師の釈に「末法の初め、冥利無きにあらず」の釈の事
  仰せに云わく、この釈の意は、末法において、冥の利益、迹化の衆あるべしということなり。この釈は、薬王品の「此経即為閻浮提人病之良薬。若人有病、得聞是経、病即消滅、不老不死(この経は即ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり。もし人病有らんに、この経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん)」云々、この経文の意を底に含めて釈せり。妙楽云わく「しかるに後の五百は、しばらく一往に従う。末法の初め、冥利無きにあらず。しばらく大教の流行すべき時に拠る。故に五百と云う」と云えり。よって、本化の菩薩は顕の利益、迹化は冥の利益なるべし云々。
一、爾前経は瓦礫国の事
  仰せに云わく、法華経の第三に云わく「如従飢国来 忽遇大王膳(飢えたる国より来って、たちまちに