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至始覚等は、随他意なれば「他の法」なり。さて、この題目の五字は、五百塵点より已来、証得したまえる法体なり。故に「我が法」と釈せり。天台云わく「この妙法蓮華経は、本地甚深の奥蔵なり。三世の如来の証得したもうところなり」とは、これなり。
一、色心を心法と云う事
仰せに云わく、玄の十に云わく「請を受けて説く時は、ただこれ教意を説くのみ。教意はこれ仏意なり。仏意は即ちこれ仏智なり。仏智至って深し。この故に三止四請す。かくのごとき艱難は、余経に比ぶるに、余経は則ち易し」云々。この釈の意分明なり。「教意」と「仏意」と「仏智」とは、いずれも同じことなり。「教」は二十八品なり、「意」は題目の五字なり。総じて、「仏意」とは法華経の異名なり。法華経をもって一切経の心法とせり。また、題目の五字をもって、一代説教・本迹二門の神とせり。経に云わく「妙法蓮華経如来寿量品」、これなり。この題目の五字をもって三世の諸仏の命根とせり。さて、諸経の神も法華経なりという証文は、「妙法蓮華経方便品」と題したる、これなり云々。
一、無作の応身は我ら凡夫なりという事
仰せに云わく、釈に云わく「凡夫もまた三身の本を得たり」云々。この「本」の字は、応身のことなり。されば、本地無作の本覚の体は、無作の応身をもって本とせり。よって、我ら凡夫なり。応身は物に応う身なり。その上、寿量品の題目を唱え出だし奉るは、真実に応身如来の慈悲なり云々。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |