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(もし能く持つことあらば、即ち仏身を持つ)」とまじないたるなり。釈に云わく「陀羅尼とは、諸仏の密号なり」と判ぜり。詮ずるところ、「法華の折伏は権門の理を破す」の義、「悪を遮り、善を持つ」の義なり云々。
一、「六万八千人」の事
仰せに云わく、「六」とは、六根なり。「万」とは、六根に具するところの煩悩なり。「八」とは、八苦の煩悩なり。「千」とは、八苦に具足する煩悩なり。これ即ち、法華経に値い奉って、「六万八千」の功徳の法門と顕るるなり。詮ずるところ、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る外に、「六万八千」の功徳の法門これ無きなり云々。
一、「妙荘厳王」の事
仰せに云わく、「邪見は即ち正なり」の手本なり。詮ずるところ、森羅三千の万法、妙をもって荘厳したる王なり。「妙」とは、称歎の語なり。「荘厳」とは、色法なり、「王」とは、心法なり。諸法の色心を不思議と歎めたり。しかれば、「妙荘厳王」の言、三千の諸法、三諦・法性の当位なるなり。詮ずるところ、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経をもって色心を荘厳したり。この荘厳とは、別してかざり立てたるにはあらず、当位即妙の荘厳なり。煩悩即菩提・生死即涅槃これなり云々。
一、華厳・大日・観経等の凡夫の得道の事
仰せに云わく、彼らの衆、皆各々、その経々の得道に似たれども、真実には法華の得道なり。いわゆる三・五の下種の輩なり。経に云わく「始見我身、聞我所説(始め我が身を見、我が説くところを聞
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |