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解なり。
さて、滅後の五品の初めの十心具足・初随喜品も一念三千の宝を積みたる函なり。法華経の骨髄、末法において法華経の行者の修行の相貌、分明なり。詮ずるところ、信と随喜とは心同じなり。随喜するは信心なり。信心するは随喜なり。一念三千の法門は、信心・随喜の函に納まりたり。
また、この函とは、いわゆる南無妙法蓮華経これなり。また、この函は、我らが一心なり。この一心は、万法の総体なり。総体は、題目の五字なり。一念三千と云うがごとく、一心三千もあり。釈に云わく「介爾も心有らば、即ち三千を具す」。
また、宝函とは、我らが色心の二法なり。本迹両門、生死の二法、止観の二法なり。詮ずるところ、信心の函に入れたる南無妙法蓮華経の函なり云々。
一、「見仏聞法、信受教誨(仏を見たてまつり法を聞いて、教誨を信受す)」の事
仰せに云わく、この経文は、一念随喜の人は五十の功徳を備うべし。しかるあいだ、「見仏聞法」の功徳を具足せり。この五十展転の五十人の功徳を、随喜功徳品に説かれたり。よって、世々生々の間、「見仏聞法」の功徳を備えたり。詮ずるところ、末法に入っては、「仏を見る」とは寿量品の釈尊、「法を聞く」とは南無妙法蓮華経なり。「教誨」とは、日蓮等の類い教化するところの諸宗無得道の教誡なり。信受するは法華経の行者なり。
詮ずるところ、寿量開顕の眼の顕れては、この「見仏」は無作の三身なり。「聞法」は、万法己々の音声なり。「信受教誨」は、本有随縁真如の振る舞いなり。これ即ち色心の二法なり。「見」
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |