も、淤泥にそまざるがごとし。この「蓮華」というは、地涌の菩薩に譬えたり。「地」とは、法性の大地なり。詮ずるところ、法華経の行者は、蓮華の泥水に染まざるがごとし。ただ「唯一大事」の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり。「世間法」とは、国王・大臣より所領を給わり官位を給わるとも、それには染せられず、謗法の供養を受けざるをもって、「不染世間法」とは云うなり。詮ずるところ、蓮華は水をはなれて生長せず。「水」とは、南無妙法蓮華経これなり。本化の菩薩は、「蓮華」のごとく、過去久遠より已来、本法所持の菩薩なり。「蓮華在水」とは、これなり。詮ずるところ、この「水」とは、我ら行者の信心なり。「蓮華」は、本因本果の妙法なり。信心の水に妙法蓮華は生長せり。「地」とは、我ら衆生の心地なり。「涌出」とは、広宣流布の時、一閻浮提の一切衆生、法華経の行者となるべきを、「涌出」とは云うなり云々。
一、「願仏為未来 演説令開解(願わくは、仏は未来のために、演説して開解せしめたまえ)」の事
仰せに云わく、この文は、弥勒菩薩等、末法当今のために、「我従久遠来 教化是等衆(我は久遠より来、これらの衆を教化せり)」の言を「演説令開解」せしめたまえと請じ奉る経文なり。この請文において寿量品は顕れたり。五百塵点の久遠の法門これなり。「開解」とは、教主釈尊の御内証にこの分をおさえたもうを、「願わくは開かしめたまえ。同じく一会の大衆の疑いをも解かしめたまえ」と請ずるなり。この「開解」の語を、寿量品にして「汝等当信解(汝等は当に信解すべし)」と誡めたまえり。もし開解したまわずんば、大衆は皆法華経において疑惑を生ずべしと見たまえり。疑いを生ぜば三悪道に堕つべしと、既に弥勒菩薩申されたり。この時、寿量品顕れずんば、「即当堕悪道(即
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |