1160ページ
孝・不孝を分別せざる子なり。「我等皆似仏子(我らは皆仏子に似たり)」の「子」は、中根の声聞は仏子に似たりと説かれたり。「為治狂子故(狂子を治せんがための故に)」の「子」は、久遠の下種を忘れたれば、物にくるう子なり。よって、釈尊の御子にも、物にくるう子もあり、不孝の子もあり、孝養の子もあり。いわゆる、法華経の行者は真実の釈尊の御子なりと、釈迦、多宝、分身三千三百万億那由他の世界に充満せる諸仏の御前にして、孝・不孝の子を定めおきたまえり。父の業をつぐをもって子とせり。
三世の諸仏の業とは、南無妙法蓮華経これなり。法師品に「行如来事(如来の事を行ず)」と説けり云々。法華経は母なり、釈尊は父なり、我ら衆生は子なり。無量義経に云わく「諸仏国王是経夫人和合、共生是菩薩子(諸仏の国王とこの経の夫人と和合して、共にこの菩薩の子を生ず)」。「菩薩」とは、法華経の行者なり。法師品に云わく「在家・出家行菩薩道(在家・出家にて菩薩の道を行ず)」云々。
一、「非口所宣、非心所測(口の宣ぶるところにあらず、心の測るところにあらず)」の事
仰せに云わく、「非口所宣」は色法、「非心所測」は心法なり。色心の二法をもって大海にして教化したる衆生を宣測するにあらずと云えり。末に至っては、「広導諸群生(広く諸の群生を導く)」と説かれたり云々。
一、「不染世間法 如蓮華在水 従地而涌出(世間の法に染まらざること、蓮華の水に在るがごとし。地よりして涌出す)」の事
仰せに云わく、「世間法」とは、全く貪欲等に染せられず。譬えば、蓮華の水の中より生ずれど
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(096)御講聞書 |