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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

処そのまま道場なり。道場なれば、寂光土なり。法界は寂光土にして十界の衆生ことごとく諸法実相の仏なれば、一仏現ずべきにあらず。迷いの衆生無ければ、説くべき法も無し。よって、「仏法不現前」と云えり。「不得成仏道」とは、始覚・本覚の成仏ということもなし。本法不思議の体にして万法本有なり。これによって、釈には出世以前と判ぜり。
  しかれば、その本法の体とは、詮ずるところ、南無妙法蓮華経なり。この本法の内証に引き入れんがために、仏は四十余年誘引し、終に第五時の本法を説きたまえり。今、末法に入って、上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る日蓮、世間に出世すといえども、三十二歳まではこの題目を唱え出ださざるは、「仏法不現前」なり。この妙法蓮華経を弘めて、終には本法の内証に引き入るるなり。日蓮、あに「大通智勝仏」にあらずや。日本国の一切衆生こそ「十劫坐道場(十劫道場に坐す)」とて、十界そのまま本法の南無妙法蓮華経へ引き入るるなり。詮ずるところ、信心を出だして南無妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり云々。
一、「貧人見此珠 其心大歓喜(貧人はこの珠を見て、その心は大いに歓喜す)」の事
  仰せに云わく、「此珠」とは、一乗無価の宝珠なり。「貧人」とは、下根の声聞なり。総じては一切衆生なり。詮ずるところ、末法に入って、「此珠」とは南無妙法蓮華経なり、「貧人」とは日本国の一切衆生なり。この題目を唱え奉る者は、「心大歓喜」せり。されば、「見宝塔(宝塔を見る)」と「見此珠」とは同じきことなり。詮ずるところ、「此珠」とは、我ら衆生の一心なり、一念三千なり。この経に値い奉る時、一念三千と開くを、「珠を見る」とは云うなり。この「珠」は広く一切衆生