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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

王のおしえを待って醍醐を食するがごとしと云えり。今、南無妙法蓮華経有れども、今身より仏身に至るまでの受持をうけずんば、成仏はこれ有るべからず。「教」とは、「爾前無得道、法華成仏」のことなり。この教えをうけずんば、法華経を読誦すとも大王の位に登ること、これあるべからず。醍醐は題目の五字なり云々。
一、「大通智勝仏 十劫坐道場 仏法不現前 不得成仏道(大通智勝仏は、十劫道場に坐したまえども、仏法は前に現ぜず。仏道を成ずることを得たまわず)」の事
  仰せに云わく、この経文は一切衆生の本法流転を説かれたり。されば、釈にも出世以前と判ぜり。これは、大通仏出世し給えども、十小劫の間、一経も説き給わずという経文なり。よって、「仏法不現前」の故に、「不得成仏」と云えり。されども、釈を見るに出世以前という時は、この経文はいかなることぞ。これは本法の重を説かれたり。一仏出世すれば、流転門となる。一仏も出世無き時は、本法不思議の体なり。迷・悟もなく、生・仏もなく、成仏もなく不成仏もなきなり。よって、「不得成仏道」と云えり。そもそも本法と申すは、水があつくなり、火がつめたくならば流転門なるべし、水はいつもつめたく火はいつもあつく、地獄はいつも火焰、餓鬼はいつも飢渇、その外、万法己々の当位は当位のままなるを本法の体と云うなり。この重を説き顕したる経文なり。
  この本法の重は法華経なり、権教は流転なり。この流転の衆生を本法の重に引き入れんとての仏の出世なり。その本法というは、この経なり。詮ずるところ、この経文の本法とは、「大通智勝仏」というは、我ら衆生の色心なり。「十劫」というは、十界なり。「坐道場」というは、十界の住