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ごとし、かくのごとし)」と同じなり。詮ずるところ、「等」とは、南無妙法蓮華経なり。「法の雨をふらす」とは、今身より仏身に至るまで持つや否やと云う受持の言語なり云々。
一、「等雨法雨(等しく法の雨を雨らす)(等しき法の雨雨る)」の事
仰せに云わく、この時は、妙法実相の法雨は十界三千、下は地獄、上は非想非非想まで、横に十方、竪に三世に亘って妙法の功徳ふるを、「等」とは云うなり。さて「雨る」とは、一切衆生の色心、妙法蓮華経と三世常住にふるなり云々。
一義に云わく、この妙法の雨は、九識本法の法体なり。しかるに、一仏現前して説き出だすところの妙法なれば、「法の雨をふらす」と云うなり。その故は、「ふらす」というは、上より下へふるを云うなり。よって、従果向因の義なり。仏に約すれば、第十の仏果より九界へふらす。法体にては、ふる処もふらす処も真如の一理なり。識分にては、八識へふり下りたるなり。しかれば、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生の頂上にふらすを、「法の雨をふらす」と云うなり云々。
一、「如従飢国来 忽遇大王膳(飢えたる国より来って、たちまちに大王の膳に遇うがごとし)」の事
仰せに云わく、この文は中根の四大声聞、法華に来れること、譬えばうえたる国より来って大王のそなえに値うがごとくの歓喜なりと云えり。しかれば、この文のごとくならば、法華已前の人は餓鬼界の衆生なり。既に「飢国来」と説けり。「大王膳」とは、醍醐味なり。中根の声聞、法華に来って、一乗醍醐の法味を得て、たちまちに法王の位に備わりたり。「忽」の字は、爾前の迂廻道
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |