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一、「等雨法雨(等しく法の雨を雨らす)(等しき法の雨雨る)」の事
仰せに云わく、「等」とは、平等のことなり。善人・悪人、二乗・闡提、正見・邪見等の者にも、妙法の雨を惜しまず平等にふらすということなり。されば、「法の雨を雨らす」という時は、大覚世尊ふらしてに成りたまえり。さて「法の雨ふりて」とよむ時は、本より実相平等の法雨は、常住本有の雨なれば、今始めてふるべきにあらず。されば、諸法実相を、譬喩品の時は風月に譬えたり。妙楽大師は「何ぞ隠れ、何ぞ顕れん」と釈せり。常住なり。実相の法雨は三世常恒にして、隠顕さらに無きなり。詮ずるところ、「等」の字は、「ひとしく」とよむ時は、釈迦如来の平等の慈悲なり。さて、「ひとしき」とよむ時は、平等大慧の妙法蓮華経なり。「等しく法の雨をふらす」とは、能弘につけたり。「等しき法の雨ふりたり」と読む時は、所弘の法なり。詮ずるところ、「法」というは、十界の諸法なり。「雨」とは、十界の言語音声の振る舞いなり。「ふる」とは、自在にして、地獄は洞燃猛火、乃至仏界の上の所作・音声を、「等雨法雨」とは説けり。
この「等雨法雨」の法体は、南無妙法蓮華経なり。今、末法に入って日蓮等の類いの弘通する題目は、「等雨法雨」の法体なり。この「法雨」、地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで、同時にふりたる「法雨」なり。日本国の一切衆生のために付嘱し給う「法雨」は、題目の五字なり。いわゆる、日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経これなり云々。方便品には「本末究竟等」と云えり。譬喩品には「等一大車(等一の大車)」と云えり。この「等」の字を重ねて説かれたり。あるいは「如我等無異(我がごとく等しくして異なることなし)」と云えり。この「等」の字は、宝塔品の「如是、如是(かくの
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |