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法華経を信じ奉るは、根をつけたるがごとし。法華経の文のごとく「是名持戒(これを戒を持つと名づく)」の戒体を本として、「正直捨方便 但説無上道(正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ)」のごとくなるは戒なり、法華経の文相にまかせて法華三昧を修するは定なり、題目を唱え奉るは慧なり。いわゆる、法界ことごとく生住異滅するは信、己々の本分は戒、三世不改なるは定なり、各々の徳義を顕したるは慧なり。これ即ち法界平等の「根茎枝葉」なり。これ即ち真如実相の振る舞いなり。いわゆる戒・定・慧の三学は妙法蓮華経なり。これを信ずるを「根」と云うなり。釈に云わく「三学をともに伝うるを、名づけて妙法と曰う」云々。
一、「根茎枝葉」の事
仰せに云わく、これは我らが一身なり。「根」とは心法なり、「茎」とは我らが頭より足に至るまでなり、「枝」とは手足なり、「葉」とは毛なり。この四つを「根茎枝葉」と説けり。法界三千、この四つを具足せずということなし。これ即ち「信・戒・定・慧」の体にして、実相一理の南無妙法蓮華経の体なり。法華不信の人は「根茎枝葉」ありて増長あるべからず。「枯槁衆生(枯槁の衆生)」なるべし云々。
一、「枯槁衆生(枯槁の衆生)」の事
仰せに云わく、法華経を持ち奉る者は「枯槁衆生」にあらざるなり。既に法華経の種子を受持し奉るが故なり。謗法不信の人は下種無きが故に、「枯槁衆生」なり。されば、妙楽大師云わく「余教をもって種となさず」。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |