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足等は「切」なり。一身なるは「一」なり。詮ずるところ、色心の二法、「一切智地」にして南無妙法蓮華経なり云々。
一、「一切智地」の四字
この「一切智地」の四字に、法華経一部八巻文々句々を収めたり。この「一切智地」とは、「三諦、一諦、三にあらず、一にあらず」なり。三智に約すれば空智なり。さては三諦とは云い難し。しかりといえども、三諦一諦の中の空智なり。されば、三諦において三三九箇の三諦有り。まず空諦にて三諦を云う時は、空諦と呼び出だすは仮諦、空諦なるは空諦なり。不二するは中道なり。三諦同じく、かくのごとく心得べきなり。
詮ずるところ、この「一切智地」をば、九識法性と心得べきなり。九識法性をば、迷悟不二・凡聖一如なれば、空と云うなり。無分別智光を空と云うなり。この九識法性とは、いかなる処の法界を指すや。法界とは十界なり。十界即諸法なり。この諸法の当体、本有の妙法蓮華経なり。この重に迷う衆生のために、一仏現じて「分別説三(分別して三を説きたもう)」するは、九識本法の都を立ち出ずるなり。さて、終に本の九識に引入する、それを法華経とは云うなり。「一切智地」とは、これなり。「一切智地」は我ら衆生の心法なり。心法即ち妙法なり。「一切智地」とは、これなり云々。
一、「根茎枝葉」の事
仰せに云わく、この文をば、釈には「信・戒・定・慧」云々。この釈の心は、草木はこの「根茎枝葉」をもって増長と云うなり。仏法を修行するも、またかくのごとし。詮ずるところ、我ら衆生、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |