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は、これなり。聞く故に持ち奉る、持ち奉るが故に三類の強敵来る。来るをもって「現世安穏」の記文顕れたり。法華の行者なること疑いなきなり。法華の行者はかかる大難に値うべしと見えたり。大難に値うをもって、「後生善処」の成仏は決定せり。これあに現世にして安穏なるにあらずや。
「後生善処」は、提婆品に分明に説けり。詮ずるところ、「現世安穏」とは、法華経を信じ奉れば三途・八難の苦をはなれ、善悪・上下の人までも、皆、教主釈尊と同等の仏果を得て、自身本覚の如来なりと顕す。自身の当体、妙法蓮華経の薬草なれば、「現世安穏」なり。ここを開くを「後生善処」と云うなり。妙法蓮華経というは妙法の薬草なり。詮ずるところ、「現世安穏」は色法、「後生善処」は心法なり。十界の色心、妙法と開覚するを「現世安穏、後生善処」とは云うなり。詮ずるところ、法華経を弘むるをもって「現世安穏、後生善処」と申すなり云々。
一、「皆悉到於一切智地(みな一切智地に到らしむ)」の事
仰せに云わく、「一切智地」というは法華経なり。譬えば、三千大千世界の土地・草木・人畜等、皆大地に備りたるがごとく、八万法蔵・十二部経ことごとく法華に帰入せしむるなり。「皆悉」の二字をば、善人も悪人も、迷いも悟りも、一切衆生の悪業も善業も、その外、薬師・大日・弥陀ならびに地蔵・観音、横に十方、竪に三世、有りとある諸仏の具徳、諸の菩薩の行徳、総じて十界の衆生の善悪の業作等を「皆悉」と説けり。これを法華経に帰入せしむるを、「一切智地」の法華経と申すなり。
されば、文句の七に云わく「『皆悉到於一切智地』とは、『地』とは実相なり、究竟して二にあら
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |