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えり。法華経の行者は求めずしてこの功徳を受得せり。よって、「自得」とは説かれたり。この「自」の字は一念なり、「得」は三千なり。また「自」は三千、「得」は一念なり。また「自」は自なり、「得」は他なり。総じて「自得」の二字に法界を尽くせり。詮ずるところ、この妙法蓮華経を「自」より得たり。「自」とは、釈尊なり。釈尊は、即ち我が一心なり。一心の釈迦より受得し奉る南無妙法蓮華経なり。日蓮も生年三十二にして自得し奉る題目なり云々。
一、「薬草喩品」の事
仰せに云わく、「薬」とは「是好良薬(この好き良薬)」の南無妙法蓮華経なり。妙法を頂上にいただきたる草なれば、薬にあらずということなし。「草」は中根の声聞なれども、総じては一切衆生なり。譬えば、土器に薬をかけたるがごとし。我ら衆生、父母果縛の肉身に南無妙法蓮華経の薬をかけたり。煩悩即菩提・生死即涅槃はこれなり云々。この分を教うるを「喩」とは申すなり。釈に云わく「『喩』とは、暁訓なり」。提婆、竜女の畜生、人間も、天帝、羅漢、菩薩等も、ことごとく「薬草」の仏にあらずということなし。末法当今の法華の行者の日蓮等の類いは、「薬草」にして、日本国の一切衆生の「薬王」なり云々。
一、「現世安穏、後生善処(現世安穏にして、後に善処に生ず)」の事
仰せに云わく、詮ずるところ、この妙法蓮華経を聴聞し奉るを、「現世安穏」とも、「後生善処」とも云えり。既に上に「聞是法已(この法を聞き已わる)」と説けり。「聞」は名字即の凡夫なり。妙法を聞き奉るところにて即身成仏と聞くなり。「もし能く持つことあらば、即ち仏身を持つ」と
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |