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一、「捨悪知識 親近善友(悪知識を捨てて、善友に親近す)」の事
仰せに云わく、「悪知識」とは、在世にては善星・瞿伽利・提婆等これなり。「善友」とは、迦葉・舎利弗・阿難・目連等これなり。末法当今において、「悪知識」というは、法然・弘法・慈覚・智証等の権人・謗法の人々なり。「善知識」と申すは、日蓮等の類いのことなり。
総じて、「知識」において重々これ有り。外護の知識、同行の知識、実相の知識これなり。詮ずるところ、実相の知識とは、いわゆる南無妙法蓮華経これなり。「知識」とは、形をしり、心をしるを云うなり。これ即ち色心の二法なり。謗法の色心を捨てて、法華経の妙境・妙智の色心を顕すべきなり。「悪友」は謗法の人々なり。「善友」は日蓮等の類いなり。
一、「無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり)」の事
仰せに云わく、この「無上宝聚」において、一には、釈尊の因行果徳の万行万善の骨髄を宝聚と云うなり。二には、妙法蓮華経のことなり。「不求」とは、中根の四大声聞はかくのごとき宝聚を任運自在に得たり。「此実我子、我実其父(これは実に我が子、我は実にその父なり)」の故なり。総じては一切衆生のことなり。「自得」というは、「自」は十界のことなり。これは「自我得仏来(我は仏を得てより来)」の「自」と同じことなり。「得」もまた同じことなり。末法に入っては、「自得」とは日蓮等の類いなり。「自」とは法華経の行者、「得」とは題目なり。「得」の一字には師弟を含みたり。「与」と「得」との義を含めり。「不求」とは、仏法に入るには修行・覚道の辛労あり。釈迦如来は「娑婆に往来すること八千反」の御辛労にして求め給う功徳なり。さて、今の釈迦牟尼仏と成り給
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |