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「直至」の「至」は、ここよりかしこへいたるの「至」にはあらず。住処即寂光というを、「至」とは云うなり。この「宝乗」の「宝」は、七宝の大車なり。七宝即ち頭上の七穴、七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経これなり。この題目の五字、我ら衆生のためには、三途の河にては船となり、紅蓮地獄にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては涼風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり、飢えたる時は食となり、裸なる時は衣となり、妻となり、子となり、眷属となり、家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給う。「直至道場」とは、これなり。よって、この身取りも直さず寂光土に居するを、「直至道場」とは云うなり。「直」の字、心を留めてこれを案ずべし云々。
一、「若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種(もし人信ぜずして、この経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん)」の事
仰せに云わく、この経文の意は、小善の成仏を信ぜずんば、一切世間の仏種を断ずということなり。文句の五に云わく「今経は小善の成仏を明かす。これは縁因を取って仏種となす。もし小善の成仏を信ぜずんば、即ち一切世間の仏種を断ずるなり」文。爾前経の心は、小善の成仏を明かさざるなり。法華経の意は、一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる。たとい法界に充満せる大善なりとも、この経に値わずんば善根とはならず。譬えば、諸河の水、大海に入りぬれば鹹の味となる。入らざれば本の水なり。法界の善根も、法華経へ帰入せざれば善根とはならざるなり。
されば、釈に云わく「『断一切仏種(一切の仏種を断ず)』とは、浄名には煩悩をもって如来の種とな
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |