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り。故に『大車』と言う」云々。
一、「其車高広(その車は高広なり)」の事
仰せに云わく、この「車」は、南無妙法蓮華経なり。即ち我ら衆生の体なり。法華一部の総体なり。「高広」とは仏知見なり。されば、この車を方便品の時は「諸仏智慧」と説けり。その智慧を「甚深無量」と称歎せり。歎の言には「甚深無量」とほめたり。ここには「其車」と説いて「高広」とほめたり。されば、文句の五に云わく「『其車高広』より下は、如来の知見の深遠なることに譬う。横に法界の辺際に周く、竪に三諦の源底に徹す。故に『高広』と言うなり」。
詮ずるところ、この「如来」とは一切衆生のことなり。既に諸法実相の仏なるが故なり。「知見」とは、色心の二法なり。「知」は心法、「見」は色法なり。色心二法を「高広」と云えり。「高広」即ち本迹二門なり。これ即ち南無妙法蓮華経なり云々。
一、「是朽故宅 属于一人(この朽ち故りたる宅は、一人に属す)」の事
仰せに云わく、この文をば、文句の五に云わく「失火の由を明かす」。この「宅」とは、三界の火宅なり。「火」と云うは、煩悩の火なり。この「火」と「宅」とをば「属于一人」とて、釈迦一仏の御利益なり。弥陀・薬師・大日等の諸仏の救護にあらず、教主釈尊一仏の御化導なり。「唯我一人 能為救護(ただ我一人のみ、能く救護をなす)」とは、これなり。この「属于一人」の文を、重ねて五の巻の提婆品に説いて云わく「観三千大千世界、乃至無有如芥子許、非是菩薩捨身命処。為衆生故(三千大千世界を観るに、乃至芥子のごときばかりも、これ菩薩の身命を捨てたもうところにあらざることあることなし。衆
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |