1140ページ
譬う」云々。この釈、分明なり。「田宅」は身命なり。身命は即ち南無妙法蓮華経なり。この題目を持ち奉る者は、あに「多有田宅」の長者にあらずや。今、末法に入って、日蓮等の類い、「多有田宅」の本主として「如説修行(説のごとく修行す)」の行者なり云々。
一、「等一大車(等一の大車)」の事
仰せに云わく、この「大車」とは、「直至道場(直ちに道場に至る)」の大白牛車にして、「其疾如風(その疾きこと風のごとし)」なり。詮ずるところ、南無妙法蓮華経を、「等一大車」と云うなり。「等」というは、「諸法実相」なり。「一」とは、「唯有一乗法(ただ一乗の法のみ有り)」なり。「大」とは、大乗なり。「車」とは、一念三千なり。よって、釈には「等」の字を「子等し」「車等し」と釈せり。「子等し」の「等」と「如我等無異(我がごとく等しくして異なることなし)」の「等」とは同じなり。「車等し」の「等」は、「平等大慧」の「等」なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、男女・貴賤共に「無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり)」の金言を持つ者なり。智者・愚者をきらわず、ともに即身成仏なり云々。
疏の五に云わく「一には等しき子、二には等しき車なり。子等しきをもっての故に、則ち心等し。一切衆生等しく仏性有るに譬う。仏性同じきが故に等しくこれ子なり。第二に『車等し』とは、法等しきをもっての故に、仏法にあらざることなし。一切法は皆摩訶衍なるに譬う。摩訶衍同じきが故に、等しくこれ大車なり。しかして『各賜(各賜う)』と言うは、各、本習の四諦・六度・無量の諸法に随う。各旧習において真実を開示す。旧習同じからず。故に『各』と言う。皆、摩訶衍な
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(096)御講聞書 |