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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

り。この当体のふるまいこそ長者なれ。よって、観心の長者は我ら凡夫なり。しかるに、末法当今の法華経の行者より外に観心の長者無きなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者、「無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり)」の長者にあらずや。「既称此人為仏(既にこの人を称して仏となす)」の六字に心を留めて案ずべきなり云々。
一、「多有田宅(多く田宅有り)」の事
  仰せに云わく、「田宅」とは、長者の財宝なり。詮ずるところ、「田」というは命なり、「宅」とは身なり。文句の五に、「田宅」をば身命と釈せり。「田」は米なり。米は命をつぐ。「宅」は身をやどす。これは家なり。身命の二つを安穏にするより外に財宝は無きなり。法門に約すれば、「田」は定、「宅」は慧なり。よって、定は田地のごとし。慧は万法のごとし。我らが一心の田地より諸法の万法は起これり。「法華一部、方寸もて知るべし」と釈して、八年の法華経も一心が三千と開きたるなり。詮ずるところ、「田」は定なれば妙の徳、「宅」は慧の徳なれば法の徳。また本迹両門なり、止観の二法なり。教主釈尊、本迹両門の「田宅」をもって一切衆生を助け給えり。
  「田宅」は我ら衆生の色心の二法なり。法華経に値い奉って南無妙法蓮華経と唱え奉る時、煩悩即菩提・生死即涅槃と体達するなり。あに「多有田宅」の長者にあらずや。「多有」という心は、心法に具足する心数なり。色法に具足する所作なり。しかれば、「多有田宅」の文は、一念三千の法門なり。その故は、一念は定なり、三千は慧なり。既に釈に云わく「『田宅』は別譬なり。『田』は能く命を養う。禅定の般若を資くるに譬う。『宅』は身を栖ますべし。実境の智の所託となるに