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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

て、空しくやあらんずらん」と思しめして、畏れ深く有りという文なり。さて、今は畏るべきことなく、時節来って説くあいだ、「畏れなし」と喜び給えり。今、日蓮等の類いもかくのごとし。日蓮も生年三十二までは畏れありき。「もしや、この南無妙法蓮華経を弘めずしてあらんずらん」と畏れありき。今は即ちこの畏れ無し。既に、末法の当時、南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むるあいだ畏れなし。終には一閻浮提に広宣流布せんこと一定なるべし云々。
一、「我聞是法音 疑網皆已除(我はこの法音を聞いて、疑網は皆すでに除こりぬ)」の事
  仰せに云わく、「法音」とは、南無妙法蓮華経なり。「疑網」とは、最後品の無明を云うなり。この経を持ち奉れば、ことごとく除くと説かれたり。この文は、舎利弗が三重の無明、一時に俱尽することを領解せるなり。今、日本国の一切衆生、法華経の法音を聞くといえども、いまだ能く信ぜず。あに疑網皆すでに除かんや。除かずんば、「入阿鼻獄(阿鼻獄に入る)」は疑いなきなり。「疑」の字は、元品の無明のことなり。この疑いを断つを、信とは云うなり。釈に云わく「疑いなきを信と曰う」と云えり。身子はこの疑いなき故に、華光仏と成れり。
  今、日蓮等の類いは、題目の法音を信受する故に、疑網さらに無し。「如我等無異(我がごとく等しくして異なることなし)」とて、釈尊と同等の仏にやすやすとならんこと疑いなきなり。「疑網」というは、色心の二法に有る惑障なり。「疑」は心法にあり、「網」は色法に有り。この経を持ち奉り信ずれば、色心の二法の煩悩共にことごとく除くということなり。この「皆已」の「已」の字は、身子尊者、広開三顕一を指して「已」とは云うなり。今は領解の文段なり。身子、妙法の実相の理を