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るところ、この「自証」というは、三十成道の時を指すなり。その故は、教主釈尊は十九出家、三十成道なり。しかるあいだ、「自証無上道」等。
詮ずるところ、この品の心は十界皆成の旨を明かせり。しかれば、「自証」というは、十界を諸法実相の一仏ぞと説かれたり。地獄も餓鬼も、ことごとく無上の大乗の妙法を証得したるなり。「自」は十界を指したり。ほしいままに証すということなり。権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり。今、日蓮等の類いは、真実、「自証無上道 大乗平等法」の行者なり。いわゆる、南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり云々。
一、「我始坐道場 観樹亦経行(我は始め道場に坐し、樹を観じまた経行す)」の事
仰せに云わく、この文は教主釈尊、三十成道の時を説き給えり。「観樹」の「樹」というは十二因縁のことなり。詮ずるところ、十二因縁を観じて経行すと説き給えり。十二因縁は法界の異名なり。また法華経の異名なり。その故は、樹木は枝葉花菓あり。これ即ち生住異滅の四相なり。大覚世尊、十二因縁の流転を観じ、経行し給えり。詮ずるところ、末法当今も、一切衆生の法華経を謗じて流転すべきを観じて、日本国を日蓮経行して南無妙法蓮華経と弘通すること、またまたかくのごとくなり。法華の行者はことごとく道場に坐したる人なり云々。
一、「今我喜無畏(今我は喜んで畏れ無し)」の事
仰せに云わく、この経文は権教を説き畢わらせ給いて法華経を説かせ給う時なれば、「喜んでおそれなし」と観じ給えり。その故は、爾前の間は一切衆生を畏れ給えり。「もし法華経を説かずし
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |