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末に至って「若遇余仏(もし余仏に遇わば)」と説けり。釈には「深く円理を覚る。これを名づけて仏となす」と釈せり。これ即ち、「与仏」と云うは、法華経の行者の男女のことなり。「唯我一人」の釈尊に与したてまつる仏なり。この二仏より合って、「乃能究尽(いまし能く究尽したまえり)」するところの諸法実相の法体なり。されば、十如是というは、十界なり。十界即ち十如是なり。十如是は、即ち法華経の異名なり云々。
一、十如是の事
仰せに云わく、この十如是は、法華経の眼目、一切経の総要たり。されば、この十如是を開覚しぬれば、諸法において迷悟無く、実相において染浄無し。これによって天台大師は、止観の十章もこの十如是より釈出せり。しかるあいだ、十如是に過ぎたる法門さらにもってこれ無し。ここをもって、和尚授けて云わく「十大章はこれ全く十如是なり。もし大意を覚る時は、性如是の意をもって、下の玄如の図を分別すべし」。十如是を十大章に習うことは、性如是は大意なり。相如是は釈名、体如是は体相、力如是は摂法、作如是は偏円、縁如是は方便、因如是は正観、果・報如是は果・報、本末究竟如是は旨帰なり。この中に起教の章は、「化他・利物は果の上の化用なり」と云うなり云々。
一、「自証無上道 大乗平等法(自ら無上道・大乗平等の法を証す)」の事
仰せに云わく、末法当今において大乗平等の法を証せること、日蓮等の類いに限れり。されば、この経文は、教主・大覚世尊、法華経の極理を証して、番々に出世し給いて説きたもうなり。詮ず
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(096)御講聞書 |