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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

これによって、大聖の塔中の偈の相伝に云わく「一家の本意はただ一言のみをもって本となす」云々。この「一言」とは、寂照不二の一言なり。あるいは「本末究竟等」の一言とも云うなり。真実の義には南無妙法蓮華経の一言なり。「本」とは凡夫なり、「末」とは仏なり。「究竟」とは、生仏一如なり。生仏一如の如の体は、いわゆる南無妙法蓮華経これなり云々。
一、「仏所成就、第一希有難解之法。唯仏与仏(仏の成就したまえるところは、第一希有難解の法なり。ただ仏と仏とのみ)」の事
  仰せに云わく、「仏」とは、釈尊の御事なり。「成就」とは、法華経なり。「第一」は爾前の不第一に対し、「希有」は爾前の不希有に対し、「難解之法」は爾前の不難解に対したり。この「仏」と申すは、諸法実相なれば、十界の衆生を「仏」とは云うなり。十界の衆生の語言音声は、「成就」にして法華経なり。三世の諸仏の出世の本懐の妙法にして、優曇華の妙文なれば、「第一希有」なり。九界の智慧の及ばざれば、「難解法」なり。「成就」とは、我ら衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃のことなり。権教の意は終に不成仏なれば、成就にはあらず。迹門には二乗成仏顕れたり。これ即ち成就なり。これを「仏所成就」とは説かれたり。
  されば、「唯仏」とは釈迦、「与仏」とは多宝なり。多宝涌現なければ、「与仏」とは云いがたし。しかりといえども、終には出現あるべき故に、「与仏」を多宝というなり。詮ずるところ、日蓮等の類いの心は、「唯仏」は釈尊、「与仏」は日蓮等の類いのことなるべし。その故は、「唯仏」の「唯」を、重ねて譬喩品には「唯我一人(ただ我一人のみ)」と説けり。「与仏」の二字を、重ねて方便品の