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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

十章は、即ち妙法蓮華経の能釈なり。それとは、釈名は名玄義なり。体相・摂法の二つは体玄義なり。偏円の一つは教玄義なり。方便・正観・果報の三つは宗玄義なり。起教の一つは用玄義なり。始めの大意の章と終わりの旨帰との二つをばこれを除く。この意は、止観一部の所詮は、大意と旨帰とに納まれり。無明即明の大意なるが故なり。無明とも即明とも分別せざるが旨帰なり。今、妙法蓮華経の五重玄義を修行し奉れば、煩悩即菩提・生死即涅槃の開悟を得るなり。大意と旨帰とは、法華の信心のことなるべし。「以信得入(信をもって入ることを得たり)」「非己智分(己が智分にあらず)」とは、これなり。
  我ら衆生の色心の二法は、妙法の二字なり。「無始の色心は、本よりこれ理性にして、妙境・妙智なり」と開覚するを、大意とは云うなり。大は色法の徳、意は心法の徳なり。大の字は形に訓ぜり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る男女・貴賤等の色心は、本有の妙境・妙智なり。父母果縛の肉身の外に、別に三十二相八十種好の相好これ無し。即身成仏これなり。しかるあいだ、大の一字に法界をことごとく収むるが故に、法華経を大乗と云うなり。一切の仏・菩薩・聖衆・人・畜・地獄等の衆生の智慧を具足し給うが故に、仏意と云うなり。大乗も仏意も同じことなり。これ即ち妙法蓮華経の具徳なり。されば、九界の衆生の意をもって仏の意とす。一切経の心をもって法華経の意とす。「於一仏乗分別説三(一仏乗において分別して三を説きたもう)」とは、これなり。
  かかるめでたき法華経を謗じ奉ること、三世の諸仏の御舌を切るにあらずや。しかるに、この妙法蓮華経の具徳をば、仏の智慧にてもはかりがたく、いかにいわんや菩薩の智力に及ぶべけんや。